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2008年04月03日

枢機卿団の起源

この軍団の役割はどんな事なのでしょうか。

枢機卿団の起源は、5世紀の教皇がローマに在住する司祭・助祭のあるものを自らの顧問団に任じたことであるとされる。その後、ローマ教区が拡大し、ローマ周辺にローマ教区に属する司教区が設けられると、その司教たちも枢機卿団に加えられた。これらが司祭枢機卿、助祭枢機卿、そして司教枢機卿のルーツである。当初の目的を果たすため、枢機卿はローマとその近郊から選ばれるのが通例であったが、ローマ教皇の権威が増していく中で、ローマ以外の地域からも枢機卿が選ばれるようになっていった。

中世に入って、枢機卿団が教皇宮廷の貴族という色合いを持ち始めると、枢機卿は信徒の男性であれば誰でも任命されうるものとなり、聖職者でない者も枢機卿団に加わっていた。たとえば16世紀の著名な枢機卿レジナルド・ポールは司祭叙階を受けるまでに18年以上も枢機卿職をつとめていた。現代では最低限の条件として司祭であることが必要とされており、通常は司教団から任命される。司祭が枢機卿に任命される場合は任命後に司教叙階を受けることが多いが、最近の例では2001年に枢機卿に任命されたイエズス会員アヴェリー・デュレスが枢機卿任命時に司祭であったが、高齢を理由に司教叙階の免除を願い出てゆるされている。

13世紀初頭にはわずか7人しかなかった枢機卿団であるが、16世紀に入って急速にその規模が拡大したため、シクストゥス5世の時代に枢機卿団の人数に70人という枠が設けられた。内訳は6名の司教枢機卿、50名の司祭枢機卿、14名の助祭枢機卿である。20世紀にいたるまでこの制限は守られていったが、教皇ヨハネ23世はこの制限を解除し、枢機卿団を増員した。また教皇選挙権は80歳以下の枢機卿に限り、その人数は120人までという制限がパウロ6世によってもうけられたが、ヨハネ・パウロ2世の時代には有資格者がこの人数制限を上回った時期があった。枢機卿団は互選で首席枢機卿を選出し、教皇の承認を受ける。最近まで首席枢機卿を務めたのが、教理省長官でもあったヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿(現:ベネディクト16世)であった。現在の首席枢機卿は、アンジェロ・ソダーノ枢機卿の後任として役務を引き継いだ新国務長官タルチジオ・ベルットーネ枢機卿である。

ヨハネ・パウロ2世は精力的に枢機卿を任命してきたが、2003年10月21日に在任中最後となる枢機卿任命を行い、枢機卿団の人数は194人、そのうち80歳以下で教皇選挙権を持つものは135人となった。2005年3月の時点では、枢機卿団183人で教皇選挙権保持者は117人となっており、このうちの115人が実際に2005年のコンクラーヴェに臨んだ。

日本人の枢機卿は、1960年3月28日に土井辰雄東京大司教(職名は任命当時のもの、以下同)が初めて任命され、以後、1973年3月5日に田口芳五郎大阪大司教、1979年6月30日に里脇浅次郎長崎大司教、1994年11月26日に白柳誠一東京大司教、2003年10月21日に濱尾文郎大司教の5人が選ばれている。最初の3人と濱尾枢機卿は帰天したため、2007年11月現在、日本国籍をもつ現職枢機卿は、白柳誠一枢機卿のみである。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年11月24日

福沢諭吉について

こんなにも精力的にいろんなことをしていた人は知りませんでした。

土屋雅春の『医者のみた福沢諭吉』(中央公論社、中公新書)や桜井邦朋の『福沢諭吉の「科學のススメ」』(祥伝社)によれば、福澤と西洋医学との関係は深く、以下のような業績が残されている。


『蘭学事始』の出版
杉田玄白が記した『蘭東事始』の写本を、福澤の友人神田孝平が偶然に発見した。そこで、杉田玄白の4世の孫である杉田廉卿の許可を得て、福澤の序文を附して、1869年(明治2年)に『蘭学事始』として出版した。さらに、1890年(明治23年)4月1日には、再版を「蘭学事始再版序」を附して日本医学会総会の機会に出版している。


北里柴三郎への支援
1892年(明治25年)にドイツ留学から帰国した北里柴三郎のために、東京柴山内に大日本私立衛生会伝染病研究所(伝研)を設立して、北里が所長に就任した。1894年(明治27年)には、伝研は芝愛宕町に移転した。移転の際に住民から反対運動が起こったので、福澤は次男捨次郎の新居を伝研の隣りに作って、伝研が危険でないことを示した。1899年(明治32年)に伝研が国に移管されると、北里は伝研の所長を辞任し、福澤と長与専斎と森村市左衛門とが創設した土筆ヶ岡養生園に移った。


慶應義塾医学所の創設
1870年(明治3年)、慶應義塾の塾生前田政四郎のために、福澤が英国式の医学所の開設を決定した。そして、1873年(明治6年)、慶應義塾内に医学所を開設した。所長は慶應義塾出身の医師松山棟庵が就任した。また、杉田玄端を呼んで尊王舎を医学訓練の場所とした。残念ながら、1880年(明治13年)6月、医学所は閉鎖されることになった。

しかし、福澤の死後15年たった1916年(大正5年)12月27日、慶應義塾に医学部の創設が許可され、1917年(大正6年)3月、医学部予科1年生の募集を開始し、医学部長として北里柴三郎が就任することになった。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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